ドラマ『真田丸』は、放送第2回で仕えていた武田家が滅び、第4回のラストで臣従したばかりの織田信長が、本能寺の変で没した。生きている信長の登場シーンは、わずが1回。
なんというスピーディな展開か、と驚いたが、よくよく考えてみればこれらは3ヶ月あまりの間に起こった出来事だ。
真田一族は、3月に主家が滅び、頭を痛めたあげく4月に織田に会いに行き、本領を安堵され「何とか首がつながった」と馬を献上したりしていたら、6月には新たな主人さえ失ってしまうというとんでもない目にあった。
真田昌幸をはじめ一族の、驚き、困惑はどれほどのものだったか。ドラマの中でも、昌幸は「わしはどうすればいい。教えてくれ、信之委!」と取り乱していた。
真田が臣従した大名を色分けした年表を作ってみた。
織田信長亡き後、ぽっかり空いた甲斐・信濃・上野(ざっと山梨県から長野県、群馬県北部)をめぐって周辺の大名がぶつかりあう"天正壬午の乱"が始まる。真田一族は、その混乱の中、開き直ったかのように有力大名の間を行ったり来たりして生き残りをはかる。
本能寺のあと、真田って誰にどのくらいの期間臣従してたんだっけ、と、1582年(天正10年)から1585年(天正14年)まで、武田が滅んで豊臣旗下で徳川家康の与力になるまでの間、いつどの大名に属していたのかを簡単に書き出してみた。ただの年表では感覚的につかめないので、大名ごとにざっくりと色分けしている。
真田一族はフットワークがよいため、実に様々な動きをしている。本来、こんな風にきっちり切り分けできるものではないとは思うが、わかりやすさ重視で塗った。今後、「この頃、上杉に接近」とかも入れていきたいと思うのが、とりあえず、第一弾。クリックするとpdfが表示されます。
まず、1582年(天正10年)。ここは3ヶ月ごとに主を変るというめまぐるしさ。
図には入れていないが、実際は上杉にも何度か接近していて、臣従するような動きもしている。本能寺の変以降、徳川、北条、上杉の3勢力の間を泳ぎきったということだ。
武田の臣下として武功も高く、信濃から上野にかけてしっかりと支配地を持っていた有力国衆だったからできた駆け引きだと思うが、それにしてもやってのけた胆力には驚嘆する。
9月には徳川に臣従するが、翌10月に徳川と北条が和睦すると、家康から条件として「真田が治めている沼田領(群馬県沼田市付近)を北条に譲渡することになったから」と言われて、昌幸は「それは俺たちが自ら得た土地。徳川とはまったく関係ない」と主張し、いきなり関係悪化。とんでもない漢(おとこ)である。
この後も、家康からの沼田領譲渡命令を無視しながら、松尾城(現上田城)を徳川の金で普請したり、1584年(天正12年)に起こった小牧長久手の戦いで忙しい家康の目を盗んで、旧領回復に向けて周囲を攻略する。さすがに、徳川、北条双方からにらまれて、3年後の1585年(天正13年)の7月、一転上杉に臣従し、徳川との第一次上田合戦を戦うことになる(同年4月に、家康からの最後通牒を突っぱねているので、5~6月は無色でもいいのかもしれない)。
これまで、接近しては裏切る(城を落としたり、撃退したり)の繰り返しだったにもかかわらず、上杉もよく認めてくれたものである(人質は多めに入れたようだが)。この当時の上杉は一時と比べ力を落としていたし、秀吉との関係を深めていたので、真田も上杉の向こうに秀吉を見ていた。
12月には豊臣に臣従。信繁(幸村)を人質として大阪に送っている。
そして、翌年1585年(天正13年)、家康が秀吉に臣従すると、秀吉の命で家康の与力武将となり、ここでいったん真田一族の主家漂流は一休みとなる。
「生き残り」ではなく「勝ち上がり」を目指して
この時期の真田一族の動きは「生き残りのためのサバイバルゲーム」と評されることが多いが、ちょっと違和感がある。
確かに、武田が滅んであわてて織田に付くあたりは「生き残る」ために必死だったと思う。
だが、だんだんと、自分たちの領地がどの大名にとっても戦略的に重要な土地で、しかも戦上手と名高い昌幸率いる真田軍団は無視できない存在だ、ということを自覚していったはずだ。
「生き残り」という消極的な姿勢から、このどさくさに紛れて自領を確固としたものにしてより無視できない存在になってやろう、というより積極的な「勝ち上がり」思考になっていったんだと思う。
色つきマップを作りながら、やっぱり真田昌幸とその一党は大したものだな、と感じ入った次第である。
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